氷河期世代の行く末についての考察

2025/05/05 14:02

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これから

近頃、かの「Threads」とかいう、新しい世の言論の場にて、ある書き込みが私の心を捉えて離さぬのであった。曰く、我々、所謂「氷河期」と名付けられた世代は、実に一千七百万にも及ぶという。その多くが非正規の職に甘んじ、あるいは職を得られぬまま歳を重ねた結果、老後に手にする年金は僅か六万円程にしかならぬ見込みである、と。驚くべきことではない。そんなことは、我々が世に出た、あの冷え冷えとした時代から、疾うに分かりきっていた理ではなかったか。生活保護の方が却って手厚いなどという倒錯した現実を前に、まるで我々世代を丸ごと現代の姥捨山へ送り込もうとしているのではないか、そんな声さえ上がる始末である。

全く、考えてみれば妙な巡り合わせだ。都合の良いものは、まるで我々を避けるかのように上の世代、あるいは下の世代へと流れ去ってゆく。然して、労働の延長、年金の削減、そういった厄介事ばかりが、狙いすましたように我々の肩にだけ重くのしかかって来るように思われるのだ。この先に待ち受けるものは何か。否応なく見据えさせられるのは、老いさらばえた末の、選択的安楽死とでもいう制度ではなかろうか。

こう云うと、何やら無責任な響きがあるやも知れぬ。自分とて、体が思うように動かなくなり、最早一個の人間としての自由な活動が叶わぬと悟ったならば、静かに生を終えることも一つの選択肢として悪くはない、そう考えることもある。理屈の上では、そうなのである。しかし、いざ我が身にその時が迫ったとして、果たして同じように淡々と受け入れられるものだろうか。生の執着というものは、そう容易く断ち切れるものではあるまい。恐らくは、土壇場で醜く狼狽え、見苦しくじたばたと足掻くことになるのではなかろうか。

その、安楽死を執行するという施設。現代における姥捨山とも云うべきその場所へ、人々はどのような思いで向かうのだろう。旅立ちの、まさにその前後には、如何(いか)なる儀式が行われるのであろうか。ふと、先の大戦における出征兵士の姿が脳裏を掠める。駅頭に集まった人々が、万歳を三唱し、日の丸の小旗を振って勇ましく送り出した、あの光景。果たして、我々の「旅立ち」にも、そのような華々しい見送りがあるのだろうか。それとも、誰かが人知れず、陰で涙を流してくれるのだろうか。いや、或いは、ただ事務的に、粛々と事が進められるだけなのかも知れぬ。送り出す側も、送られる側も、最早何の感慨も抱かぬほどに、心が乾ききっているのかも知れぬ。

寄る辺なき個人の心の内と、否応なく押し寄せる時代の大きな流れ。その狭間で揺れ動く我々の世代の行く末を、そろそろ誰か、深く見据えた小説として書き記してくれる頃合いではなかろうか。そんなことを、詮方もなく考えている今日この頃である。

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